2006年 ウガンダの労働事情

2006年7月5日 講演録

ウガンダ労働組合連合(NOTU)
Ms. エリザベス アムト

 

 2000年の国税調査によると、ウガンダの人口は約690万人である。
 ウガンダは農業国で、労働力の80%が小規模自給自足農であり、農村人口を構成している。一方、12%の人たちが雇用される工場と公共部門、インフォーマルセクターで働く人々が都市人口を構成している。
 2005年から2006年にかけての統計によると、経済成長は鈍化を示している。市場物価レベルを基礎とした実質GDPを見ると04年度から05年度にかけて6.6%成長したが、05年度から06年度は5.3%しか成長しなかった。産業については、成長も04年度から05年度10.8%から4.5%へと低下している。1番厳しい影響を受けたのが製造業であり、13.5%から3.5%へと急激に低下した。ほとんどの製造業者は生産を縮小するか、24時間労働に転換するか、ディ-ゼルエンジンによる発電機に変えるか、3つのうち一つの選択を強制されている。生産コストの上昇により労働者は深刻な影響を受けている。
 2005年度の11ヶ月間の平均潜在インフレ率は5.3%であり、目標の5パーセントより少し高くなっている。現在の潜在インフレ率は4.4%であり、05年7月の6.4%から低下している。為替相場はアメリカドル1ドルが、1,857ウガンダシリングであり、比較的安定している。
 2004年度の労働組合プロフィール報告では、1950年代の英国が宗主国であった植民地時代に、英国において新しく労働党政権が生まれた。この政権は全ての植民地に労働組合法を採用するよう強制し、1952年にウガンダ労働組合法が成立した。この法により、当時鉄道建設に携わっていたインド人、ケニア人が保護された。当時の国民は労働組合への参加に熱意をもっていなかった。当時はほとんどの家族が自らの消費のため、自給自足であり、余剰分はお金に買えるために生産を行っていた。
 独立のための政治運動を率いていたムザジー氏の影響と国際的な影響が、ウガンダにおける労働組合活動の成立に勢いをもたらしたと一般的に信じられている。
 労働組合運動は1950年から60年にかけて活発化し、その結果5つの組合により最初のナショナルセンターが結成された。1960年代にはいくつかの労働組合が結成されると同時にナショナルセンターの数が増え、労働界において権力闘争が起き、混乱が生じた。
 当時のウガンダ人民議会による政府は、ナショナルセンターの閉鎖を命じた。労働大学を接収し、法科大学に吸収させた。しかし個々の労働組合はその影響を受けず活動を続けた。ナショナルセンターは1973年まで閉鎖されたままであった。1973年にアミン・ダダ政府が命令29号を発布した。この法律は2000年組合法の223章になっている。この法律により、唯一組合の組織化を許されているウガンダ労働組合会議が結成され、2003年まで続いた。
 現在ナショナルセンターであるウガンダ労働組合連合(NOTU)には17の加盟組合があり、13万7千872人の組合員を擁している。現在の労働状況はあまり良いものではなく、政府が構造調整を計画していることにより、多くの失業者が生まれている。経営者側は労働者を非正規従業員として雇用している。NOTUは労働法の見直しに参加し、8つの労働法が改正されている。NOTUでは活動の一つとして児童労働政策も実施している。また、エイズ対策活動を団体協約に盛り込む努力をしている。
 NOTUと加盟組合は労働者の権利が守られるように活動しているが、当面の課題は、失業問題である。第二は経営者が組合を認めないという拒否の問題、第三はHIVエイズ患者の問題、第4は会社の規模縮小に伴う人員削減の問題である。