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No.138(2012/8/17)

・豊かさを基盤とした人的資源

鈴木  不二一
■鈴木不二一 プロフィール
  1946年生まれ。1971年東京都立大学人文学部卒。情報通信産業労働組合連合会(情報労連)に入局。賃金調査部で主に賃金調査と賃金政策を担当。連合総研研究員、同副所長。東京大学社会科学研究所客員助教授を務め、2009~2012年同志社大学・ITECアシスタントディレクター。『社内キャリアと職業生活』『ホワイトカラーのキャリアと労働組合』『現代日本のコーポレート・ガバナンス』著書多数。
豊かさを基盤とした人的資源

  国連・持続可能な開発会議(リオ+20サミット)の中で発表された「包括的な豊かさ指標(Inclusive Wealth Index)」は、各国の幸福度(well-being)とその国の持続可能性も視野に入れながら評価するものである。近年の幸福度測定の論議に大きな一石を投じたものといえるだろう。
 この指標には二つの大きな特徴があり、[1]所得や消費などのある一時点のフロー指標ではなく、人々の豊かさの基盤となる「富」(=ストック指標)に着目していること[2]3つの分野のストック数量から構成される「包括的」(Inclusive)な指標として策定されていること――である。
 3つの分野とは、機械や建物、インフラなどの「生産された」(Manufactured)資本、すなわち物的資本と人々の教育水準と仕事の能力の人的資本、そして土地や森、化石燃料、鉱物などの自然資本である。
 今回対象となった20ヵ国のうちの大部分の国が1990~2008年の間に「1人当たり包括的な豊かさ」を増加させた(平均18%)。しかし、その過程で自然資本を大きく激減させた国が大部分であった(自然資本が減少しなかった国は、日本、フランス、ケニアの3ヵ国のみ)。例えば、中国は期間中に物的資本を451%も増加させたが、自然資本は17%減少し、「1人当たり包括的な豊かさ指標」で評価すれば44%の伸びである。「1人当たり自然資本減耗」が甚大だったのは、イギリス(-40.8%)、サウジアラビア(-39.2%)、南アフリカ(-33.0%)、インド(-31.0%)、ブラジル(-25.4%)、アメリカ(-20.0%)などだ。自然資本の消耗という代償により得られる豊かさが持続可能でないことは自明の理であるが、そのことを具体的な数値として「見える化」させたことに今回の指標の意義がある。
 なお、日本は自然資本を減少させていない数少ない国の一つであるが、化石燃料や鉱物、森林資源を輸入に頼っている現状は、地球大的な自然資源の減少に寄与している。豊かさの持続可能性を問うことは、一国レベルでの発想を超え、グローバルな視野に立つことを要請する。このことも「包括的な豊かさ指標」が指し示す大きな教訓の一つだろう。
 多くの工業国で、人的資本(平均教育期間、賃金、労働者が引退するまでの期待就業年数などから算出)は「包括的な豊かさ」の最大の構成要素である(人的資本構成比はアメリカ75%、イギリス88%、日本71%)。日本は今回の計測対象国の中で最も「1人当たり人的資本」が豊富な国であった。
 イギリスの経済誌『エコノミスト』の最近号(2012年6月30日号)は、「世界各国の本当の富、日本はまだまだ豊か」という見出しで、国連の「包括的な豊かさ指標」の計測結果をとりあげた。
 OECDが5月22日に発表した「より良い暮らし指標(Your Better Life Index)」アップデート版では、日本の総合評価が昨年の19位から21位に下落した。このことに落胆している人が多かっただけに、国連の「包括的な豊かさ指標」の計測結果は、久しぶりの明るい話題として好意的に受けとめられた。
 国連の「包括的な豊かさ指標」は、日本の豊かさの基盤が人的資本の蓄積にあることを改めて確認させてくれた。しかし、このように相対的に恵まれている人的資源ストックの持続可能性については、危険な兆候が随所に現れている。
 第一に、日本の人的投資の基軸をなす企業の教育訓練費は、1990年代に大きく減退した後、2000年代後半からやや持ち直しの動きがみられるものの、依然として1980年代の水準にまで回復するに至っていない。(厚生労働省『就労条件総合調査』によれば、労働費用に占める教育訓練費の割合は、1988年0.38%から95年0.27%に低下し、その後98年0.29%、2002年0.28%と低迷状況続けた後、2006年には0.33%に回復した)第二に、非正社員の教育訓練機会は正社員の半分以下という大きな格差があり、近年における非正社員比率の増大は日本全体の人的投資減退傾向に拍車をかける結果となった。第三に、最近の国際比較研究の結果によれば、日本の教育訓練機会の水準は主要工業国にくらべてそれほど潤沢なわけではない。(例えば、本間由紀<2002>「継続教育訓練経験の国際比較」によれば、2000年前後の教育訓練経験率は、日本では28%で、スウェーデン53%、イギリス44%,アメリカ40%、ニュージーランド48%などの上位国を大きく下回り、OECD加盟国中では中位以下の水準にとどまっていた)
 日本の工業化の本格的始動に先行して展開された明治初年の教育改革は、まさに「国家百年の大計」としてその後の工業化の基盤形成に大きく寄与した。戦後教育改革と企業民主化による企業内訓練機会の解放もまた、高度成長期の人材需要を力強く準備するものであった。こうした過去の流れと対比すると、足下の人的投資は、目先の利益偏重の短期的視野のもとに将来的な人的資源枯渇をもたらす「国家百年の小計」の経路をひたすら突き進んでいるかの感がある。
 連合は、「働くことを軸とする安心社会」実現の政策(2010年12月2日)の中で、教育費の自己負担軽減、生涯教育・公的職業訓練の充実の必要を提起し、また「2013年度連合の重点政策」の中でも、「日本再生戦略」の基軸としての人材育成政策の充実強化を強調している。
 いま日本で享受されている豊かさは、過去の蓄積に大きく依拠しながら実現されているものに他ならない。過去の遺産の食いつぶしではなく、豊かさの基盤の持続的な蓄積を可能とするような経済社会や産業、企業の営みを実現することが可能かどうか、不断の点検と反省を怠ってはならない。「各国の幸福度(well-being)とその持続可能性をモニターする」という国連報告書の主旨に沿いながら、日本の豊かさの基盤の将来について熟慮を凝らす必要がある。
 

発行:公益財団法人 国際労働財団  http://www.jilaf.or.jp/
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