バックナンバー

No.59(2011/1/24)
ネパール連邦民主共和国の民主化への変遷(1)
 現在、ネパールでは10年以上にわたる内戦状態が終わり、ネパール王国からネパール連邦民主共和国へと生まれ変わったが、政治や経済、教育のいずれを見ても不安定な状況が続いている。
  このような状況から国際労働財団(JILAF)では「独立ネパール労働組合会議(NTUC-I)」と協同で、(1)職場の環境改善セミナー(2)労使関係セミナー(3)児童労働撲滅のための学校プロジェクト――などを展開しており、ネパールの地域や社会に貢献するプロジェクトを行っている。
  今号から現地に駐在しているJILAF・和田正夫フィールドマネージャーが、ネパール情勢について報告する。
和田フィールドマネージャーからの報告

 1951年以降のネパールは近代化をめざし、王政と民主化運動をめぐり政治状況はたびたび混乱していた。その当時、南西アジアではパキスタンとインドで分離独立の動きが激しさを増していたが、ネパールではトリブワン国王の王制復古の形で「ラナ体制」(この体制は104年間も継続)が倒され、1951年2月に"政党政治"が導入された。
 しかしその後、政党政治を嫌ったマヘンドラ国王が全権を掌握し、「政党制」を廃止して「国王親政体制(パンチャヤート制)」を導入。これが約30年余り継続したが1989年には、ネパールが中国から武器を輸入したことによりインドが経済封鎖を実施、それに対して国民は政府の無策批判として反政府行動を展開。また東欧の民主化運動の流れの影響を受け、この国でも急速に民主化運動が激化していった。
 このことにより1990年には、「パンチャヤート制」は廃止され、新憲法で(1)主権在民(2)多民族国家(3)多言語国家――などが規定された。しかし、以後も不安定な内閣が継続し、1996年にマオイスト(ネパール共産党・毛沢東主義派)が、人民戦争を開始し、国内は内乱状況となった。この内乱は2006年11月に「第3回平和停戦合意」に至るまで、極西地域を中心に全国で1万人を超える犠牲者を出すこととなる。
 この間2001年6月には、この国の歴史的な事件として知られる、王宮内でビレンドラ国王と王女を含む王族11人が射殺された「ネパール王族殺害事件」が勃発した。その後、王位を継承した実弟のギャネンドラ国王は自ら実権を掌握する行動を取ったが、これは主要7政党間での一致団結と連携を招き、2006年4月には国民を巻き込んだ「反国王運動」が全国に広まった。中でも首都カトマンズでの運動が一段と高まり、復活した政府は会議派の長老であるギリシャ・プラサド・コイララを首相に選出後、その年の5月にはギャネンドラ国王の実権を剥奪した。2007年1月には、暫定憲法を公布し、暫定議会が発足した。
 その後は、2008年4月には国連監視団の元に制憲議会選挙が実施されたが、この選挙では関係当事者の予測を裏切って「マオイスト」が第1党(3分1強)を獲得した。そして5月に制憲議会は始まりその初日には、連邦民主共和国への移行と王政の廃止を宣言した。このことによりシャハ王朝240年の幕が下ろされ、その後は「新生民主国家ネパール」への旗印を掲げることになった。
 その新政府は、大統領にラム・バラン・ヤダブ(会議派)、首相はプスパカマル・ダハール(ネパール共産党・毛沢東主義派 通称プラチャンダ)の新体制でスタートした。新憲法は2年間の期限内に制憲議会が決定し、発布することになっているが、その後も各政党間の政争駆け引きが激しく継続し、制憲期限は延長期限も含め2年2ヵ月が経過した。しかし新憲法はいまだに発布されず、特に「マオ党」との停戦合意事項の実施内容(マオ党ゲリラ要員19000人の処遇等)の意見の不一致等により、その方針は各政党間で依然として合意に至る兆しはなく、試行錯誤の日々が続いている。
 国連監視団の滞在期限は2011年1月15日をもって終了し、帰国している。

国際労働財団(JILAF)
  ネパール・フィールドマネージャー 和田正夫

発行:財団法人 国際労働財団  http://www.jilaf.or.jp/
Copyright(C) JILAF All Rights Reserved.